二つのジュネーブ協定

1954年7月20日、ジュネーブ会議で成立したインドシナ休戦に関する協定で、北ベトナム、南ベトナム、ラオス、カンボジア、アメリカ、イギリス、フランス、ソ連、中国の開係9力国が出席し、英・ソが議長を務め、ベトナム、ラオス、カンボジアの領土保全・独立を尊重し、ベトナムについては56年7月までに統一選挙を行うことを決めましたこの会議の最終宣言にアメリカと南ベトナムは共同署名をしませんでしたが、アメリカは単独宣言を出し、協定を尊重することを明らかにしていました。
62年7月23日、ラオス中立化に関して成立した協定で、参加国は54年ジュネーブ会議の9力国の他、インドシナ体戦監視委員会の3力国のカナダ、ポーランド、インドと、ラオスの隣国ビルマ、タイの計14カ国。尚49年8月12日に成立した、捕虜の待遇に関する条約、1925年の毒ガス戦、細菌戦を禁止したジュネーブ協議書があります。
十七度線とは1954年7月20日のジュネーブ協定で、ベトナムの北緯十七度に設けられた臨時軍事停戦ラインのことで。これは国境ではなく政治的境界線でもないことが協定に明記されているにもかかわらず、56年に予定された統一選挙が実施されず、十七度繰を挟んでベトナム共和国(南)、ペトナム民主共和国(北)が対立しているため、国境視されるに至りました。十七度線の両側に、同線より幅五キロを超えない範囲で非武装地帯が設けられましたが、特に南側の非武装地帯は、アメリカの戦争拡大政策によって激しい戦場と化しました。ラオスについては、ネオ・ラオ・イサラの軍隊は、北部のフォンサリー、サムヌア両省に集結し、55年に統一のための総選挙が行われることになっていましたが、紛争のため、ネオ・ラオ・イサラは選挙に参加しませんでした。

インドシナとベトナム戦争

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