インドシナとベトナム戦争

アメリカ軍の南ベトナム撤退とラオスからの撤退を機に、インドシナ間題解決への過渡的段階で、1つのカンボジア、2つのラオス、3つのべトナムということが言われました。当然インドシナ3国はともに一つの祖国を目指してており、祖国が分解されて満足するわけではありません。すべては一つの祖国への過程ですが、この言葉はインドシナ人民戦争における3国それぞれの情勢と家計や性格をある程度反映していました。カンポジアのシアヌーク元首と、カンボジア民族統一戦線ならびにカーンボジア王国民族連合政府は、アメリカおよびアメリカの支援するロン・ノル一派の迫放を目指し、一切の妥協や取引きを排除する態度を堅持していました。1973年8月15日から実施されたアメリカ空軍のカンボジア爆撃停止も、プノンペン政府とシアヌーク元首との話し合いの糸口をひらく契機とはならず、北京でのシアヌーク元首とキッシンジャー補佐官との会談も実現の運びに至りませんでした。
1970年3月18日のプノンベン・クーデター以来、あくまで正統性を主張するシアヌーク元首は、プノンペン政権の指導者をアメリカの傀儡として、彼ら傀儡勢力の迫放をアメリカが認めないかぎり、カンボジア戦争の終結はありえない、とくり返し主張していました。しかし、カンボジア民族統一戦線も、カンボジア王国民族連合政府も、カンボジアの左派勢力クメール・ルージュとの協力によって結成され、維持され、戦争を適じて拡大・発展してきたものでした。現にカンボジア王国民族連合政府は北京にいるシアヌーク元首、ペン・ヌート首相、イエン・サリー特使らと、カンボジア現地にいるキュー・サム・ファン副首相兼国防相、フー・ニム情報・宣伝相、フー・ユオン内務・農村改革相らクメール・ルージュ勢力との統一の上に立っているのでした。シアヌーク元首らは、73年3月、カンボジア解放区を親しく訪間して、現地との協力・統一を身をもって示し、クメール・ルージュとの協力による1つのカンポジア実現を目指していました。すでに民族解放勢力によるプノンペン包囲網は、刻々と狭められ、1つのカンボシア実現は、時間の間題と見られていました。
ラオスではベトナムに続いて、73年2月和平が成立し、新しい連合政府樹立のための交渉が続けられ、プーマ首相とスファヌボン・ラオス愛国戦線議長との協力が具体化していました。しかも、2つのラオスが言われるのは、ラオスでは過去2回にわたって、同じように連合政権が成立した。それは、実質的にはあくまでラオスの2つの勢力の交渉による連合であり、合作にほかならないからでした。これを含めて3度の連合政府樹立を通じて、ラオス愛国戦線の勢力が著しく伸び、支配する面積と人口が増大していることがありました。ラオスは再び左寄りの中立路線をたどることになると思われました。
ベトナムでは、1973年1月のベトナム和平によって、一応の南ペトナムにおける2つの政権の存在が公認されました。グエン・バン・チュー大統領らのサイゴン政府と、グエン・フー・ト議長らの南ベトナム臨時革命政府と、2つの当事者の協議によって、アメリカの干渉なしに、国際監視のもとに、南ベトナム内部の間題が解決されることになったのでした。
そして17度線の北には、社会主義体制のベトナム民主共和国 があり、これを加えると、ベトナムには3つの政権があり、3つのベトナムは、それを指すことになります。しかし、ベトナムは1つであるというのが、ベトナム建国以来の事実であり願望でもありました。
シアヌーク元首が北京に政権の根拠地を置いていたことでも分かるように、この間題には民族解放闘争支持を強調する中国、そして一方にはアメリカとの協調を考えながらロン・ノル大統領とシアヌーク元首両派を支持しているソ連、インドシナでの挫折を余儀なくされた落ち目のアメリカ、早くも戦後複興の名で経済的に乗り出した日本など、列国の立場が複雑な国際的背景を構成していました。ただ、問題の究極的解決にはべトナム、ラオス和平協定とシアヌーク元首の5項目ならびにインドシナ人民首脳会議の共同声明が基本となるべきことはいうまでもありませんでした。

インドシナとベトナム戦争

       copyrght(c).インドシナとベトナム戦争.all rights reserved