ベトナム戦争

ベトナム戦争は、いわゆる宜戦布告なき戦争であり、その起点をどこに置くかは必ずしも明確ではありません。南ベトナムでアメリカとゴ・ディン・ジェム独裁政権に対する武装闘争がはじまったのは、1959年から60年にかけてですが、60年12月20日の南ベトナム解放民族戦線結成に続いて、61年2月14日に解放民族戦線人民武装勢力が成立し、一方のアメリカは61年7月から18力月で南ベトナムを平定するステーレー・テーラー計画、すなわち特殊戦争を開始し、62年2月8日、アメリカはサイゴンに軍事援助司令部を設置しました。61年に特殊戦争を開始した頃のアメリカ軍は2万人程度でしたが、63年11月1日にジェム政権が崩壊し、アメリカはいよいよ正面に出て戦わざるをえなくなり、65年に特殊戦争から局地戦争へ移った頃には、アメリカ軍は20万人に達していました。64年8月、アメリ力機は北ベトナムのゲアン省を爆撃、同じく第七艦隊はトンキン湾を砲撃しましたが、65年2月アメリカは本格的に北ベトナム爆撃、いわゆる北爆を開始し、以後戦争は急速に拡大していき、69年6月にはアメリカ軍は54万人に上りこれに衛星国の軍隊約7万入、南ベトナム政府軍60万人をあわせて合計120万人の兵力が戦闘に従事しました。それにともないアメリカの戦費も61年度の60億ドルから67年度の250億ドル、68年度の約300億ドルと急速に増加しました。アメリカと南ベトナム政府は、解放区の拡大に対抗して、いわゆる戦略村や平定計画を進めてきましたが、68年1月、南ベトナム解放民族戦線のテト攻勢により、平定計画は完全に打ち砕かれました。ジョンソン米大統領はテト攻勢の後、ドル危機、黒人解放闘争の昂揚のなかで、68年3月31日、べトナム和平を提案しました。69年1月、ジョンソンの後を受けて登場したニクソン大統領はケネディ時代の戦略村計画、ジョンソン時代の平定計画の後をうけて、ベトナム化を打ち出し、国内的にはアメリカ軍の撤退を公約していましたが、ジョンソン時代からのパリ会談、特にキッシンジャー補佐官とギク・ト特別顧間の秘密会談によって、73年1月、ベトナム和平協定が成立しました。

インドシナとベトナム戦争

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