北爆

ベトナム戦争におけるアメリカの北ベトナム爆撃で、当初アメリカは、北ベトナムから南ベトナムヘ援助物資が送りこまれるホーチミンルート爆撃を行いましたが、後には北から南への浸透を粉砕するため、北ペトナムの軍事施設爆撃に乗り出しました。本格的な北爆は、1965年2月7日からで、鉄とコンクリートだけでなく、学校、病院、寺院などへの爆撃に続いて、ハノイ、ハイフォンなどの人口密集地域への無差別な爆撃が間題となりました。一方、南ベトナムを平定するためには、北ペトナムからの浸透と戦わねばならず、さらにそれには北ベトナムへの中国からの浸透を叩く必要があるという見地から北ベトナムヘの陸海からの進撃、さらに中国との対決を強調したのが、タカ派の北進論でした。
1968年11月1日、アメリカが北爆を停止したとき、アメリカは、北ベトナムヘの偵察飛行の続行、北ベトナムおよび解放民族戦線は都市攻撃を控えるとし、非武装地帯を越えての攻撃は行わない、という了解つきであったといい、北ベトナム側は全面的にこれを否定していました。その後70年11月21日、ハイフォン地区などの北ベトナム各地にアメリカ空軍の爆撃が行われた時、アメリカ側はこれをアメリカ軍偵察機撃墜にたいする報復措置であり、限定された期間、北緯十九度線以南の北ベトナム領内にあるミサイル陣地および対空砲陣地に限定反撃するものだとしましたが、この時もアメリカ偵察機への攻撃に対する防御的反撃であるというほか、ホーチミンルートの阻止に関連する航空作戦の防衛をも理由にあげており限定の期間、地域、その意味については必ずしも明確ではありませんでした。

インドシナとベトナム戦争

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